三十三間堂通し矢の由来
通し矢はその名の通り、三十三間堂の西側の細長い軒下を
南の端から北へ向けて矢を射通したことを言います。軒下は
66間(約120m)縁側から庇の高さは高いところで5.6m低い
ところで4.5m巾は2.2mの細長いものです。厳しい高さの制約
うけてこの長い軒下を射通すことは至難の業であります。
通し矢の始まりは保元年間で、徳川家光公の時代に本堂を
改修しその後、天下の武士に通し矢を奨励したので堂射競技
が盛んになりました。諸大名は藩の威信を賭けて”天下惣一”
の掲額を目指しました。そのために各藩は研究を重ね、堂射
独特の技法が生まれました。
通し矢は大矢数といって、暮れ六つ(午後6時)から夜を徹して
翌日の暮れ六つまでの24時間の間に何本射通したかを競い
ました。貞享3年(1686年)4月27日に、13,053本射放って、
その中 8,133本を射通した紀州藩士和佐大八郎の大記録
が生まれ、空前絶後のものとなって今に残っています。
(三十三間堂通し矢についてからの抜粋より)
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