正月恒例の京都三十三間堂遠的奉射
平成17年1月16日(日) 
三十三間堂特設射場脇にて
(奉射に参加された大阪府弓道連盟の弓士、一番右端が弓刀吹将子)

平成17年度の第54回大会は、
毎年増え続ける奉射参加者の競技参加に対応するため
成人女子の部と、成人男子の部
一般称号の部の三部門に縮小されました。

昨年度の一般の部は、
参段位者以上が参加できましたが、
今年度の大会は、
四段位者・五段位者の参加ができなくなりました。

弓道界を支える中堅弓士の参加ができなくなることにより
一般の遠的競技修練者が減少し
「弓道=近的」
という極端な図式がますます広がり
「弓道=近的・遠的・射流し」
という古来から受け継がれてきた
弓道本来の三位一体の図式が
崩壊しつつある現状を憂慮いたします。

  三十三間堂通し矢の由来

通し矢はその名の通り、三十三間堂の西側の細長い軒下を
南の端から北へ向けて矢を射通したことを言います。軒下は
66間(約120m)縁側から庇の高さは高いところで5.6m低い
 ところで4.5m巾は2.2mの細長いものです。厳しい高さの制約
うけてこの長い軒下を射通すことは至難の業であります。

通し矢の始まりは保元年間で、徳川家光公の時代に本堂を
改修しその後、天下の武士に通し矢を奨励したので堂射競技
が盛んになりました。諸大名は藩の威信を賭けて”天下惣一”
の掲額を目指しました。そのために各藩は研究を重ね、堂射
  独特の技法が生まれました。

通し矢は大矢数といって、暮れ六つ(午後6時)から夜を徹して
翌日の暮れ六つまでの24時間の間に何本射通したかを競い
ました。貞享3年(1686年)4月27日に、13,053本射放って、
その中 8,133本を射通した紀州藩士和佐大八郎の大記録
 が生まれ、空前絶後のものとなって今に残っています。

(三十三間堂通し矢についてからの抜粋より)