日置當流、徳山弓道場訪問記
                             平成16年11月29日(月)
斜面打ち起こしで弓を習い始め
何とか弓引きらしくなった時に
縁あって浦上同門会の大阪支部に入会し
気が付けば十数年が過ぎ去っておりました。

以前から、日置流印西派浦上同門会のルーツである
備前伝印西派、日置當流の徳山弓道場(岡山市弓の町)を訪ねることが
私の弓道に対する想いの中で大きな課題となっておりました。

ところが、おりよく倉敷に仕事で出張した帰り道、岡山で途中下車し
長年の懸案事項である徳山弓道場を訪問することが叶いました。


(前面道路より徳山弓道場の全景)
なぜだか大きなワンコが弓射の弦音を楽しみながら寝ています?

岡山藩士の徳山氏

  岡山藩の徳山家は藩の弓道師範の家柄です。
祖先は池田勝入斎(信輝)(1536〜1584)の時に池田家に仕え、
寛永9年(1632年)、池田光政公の時、
お国換えに従って鳥取から移ってきたといいます。
池田信輝は美濃国池田郡の出身で、美濃大垣城主にもなっていますから、
この徳山氏も美濃と関係があるかもしれません。

  徳山家は4代治兵衛勝寿の代に
弓道の日置流印西派宗家吉田源之丞から免許皆伝を允許され、
以後今日に至るまで流派を伝えています。
勝寿から3代後の徳山文之介豊信(1795-1845)は
歴代中傑出した名人といわれています。
また、近代では、14代の徳山勝弥太(1869-1955)が名人として有名です。
現在も子孫の方が父祖の流儀を継ぎ、
岡山市弓之町の徳山弓道場を守っています。
                     (江戸時代の諸藩に見る徳山家から掲載)


(射場正面に掲げられている徳山勝弥太先生の写真)


(三人立ち射場より的場に向かって)
近的射場での射距離は、大きく二つに分かれる。
前者は押手の先から的までの距離と、
後者は射手の身体の中心から的までの距離を計る。

十五間だと言う人は手先で十五間のことであり、
十五間半と言う人は射位からのことである。

古来から日置流(関西系)では手先測りで十三間半、
関東方面では手先測りで十六間半が多く用いられた。

日置流では「十二間近からず、十八間遠からず」と言われており
射場によってかなりの差があったようです。

現在の安土は、ほとんどが横一面に土を入れて的を並べますが、
江戸期には、お椀型の小山のような安土の中央に的を
一つだけ掛けていたそうです。

多人数で行射するときは必ず一つ的であり
持ち的の行射はありません。



(珍しい形の日置當流矢立て、かなりの年代物です)